「まったく、どうしてこうもうまくいかないんだ」

龍王は濃緑のマントを翻しつつ公務室へと続く廊下を歩いていた。隣に並んで歩いている白髪の老龍が優しく微笑んでこう言う。

「王子、この世界がもし単純なのであればそもそも今回のような話し合いなど入りませぬ。天と天、天と地、そして天と極。いずれの場合も複雑に絡み合い、互いに微妙なバランスで成り立っているのです。そしてこの事実は過去現在未来……永劫に変わる事は無いでしょう」

通りすがりの奉公人たちの挨拶を右手で軽く受けながら龍王と老龍は歩き続ける。

「しかし、どういうわけか我々の世界を創造したお方は、我々自身の力で容易にこのバランスを崩せるように創造なされた。我々は住む世界関係なく、闇は地を通り天へ。天は地を通り闇へ。そして地は闇や天を直接行き来することができるのです」

 豪華に飾られたつきあたりを二人は右に曲がる。窓からの日差しが強く廊下を照らしていた。

「しかし本来我々はお互いに交わってはならぬ存在。一度異世界へ足を踏み入れたならば、たちまちその世界の常識は変わり歪みができてしまう。常識だけならまだしも、あまりに介入しすぎてしまえば、王子がさきほど仰られたあのおぞましき「××××」が起こってしまいます。……それは結局のところ違う規範が故にその世界の規範を塗り替えてしまった。つまり影響を及ぼしすぎたということになるのですな」

何千回と言い聞かされた既知の話をまた聞かされる龍王の顔は険しい。いやちがう。それはやはりさきほどの話し合いのことが頭に残っているからなのかもしれない。

老龍は続ける。

「そんな複雑な理(ことわり)の中で生きている我々は異なる性格、思想、価値観などを有していて当たり前。平々凡々と生きようと思う者もいれば、世界の変革など気にもかけず平気で横暴の限りを尽くそうとする者もいます。そう、肝心なのは自分たちの世界が今後も存在していく、あるいは存在していて欲しいと強く願う気持ちが世界などどうでも良いと強く思う気持ちよりも圧倒的に多いということ、この世界たちはまだ存続していくことを選んでいるということです。極界は果たしてどうなのか。それは存じません。しかし、少なくとも地と天は滅びを望んではおりませぬ。それだけでも我々が世界の均衡を保つためにこの身を捧げる理由になりますし実際それを選んできた過去もあります。古くからの習慣とは意外と根深いもので、今さらすべてを投げ出すわけにはいかないのですよ、王子」

そう優しく戒められた龍王の眉間に一秒筋肉の収縮が起こった。大きく腕を動かし、怒りのこもった身振り手振りを行う。

「爺、さっき極界はどうかは知らぬ、といったな。なぜそういえるのだ。己の尽き果てぬことのない野心・欲望を満たすためだけに地界へ侵攻し、平気でその命を奪っているのだぞ。あれのどこをどうみて『どうか知らぬ』といえるのだ。あれはどう考えても世界の均衡、保持など考えておらぬ。己がよければそれで良いのだからな、やつらは」

語気を強め荒々しく肩を揺らす。主人になびいているマントは仕方なくそれに従い大きく波打った。

老龍は優しく微笑み、となりにいるまだまだ未熟な若人の進路をやんわり変えながら語りかけた。

「王子、何事も見た目で判断してはなりませぬ。自らを死地へと追い詰める一番の原因、それは『先入観』なのですぞ」

老龍の誘いに怪訝な顔をする若者。急いで公務室に戻りたかったが、この皴を重ねた頬を見てはそれも容易く無いことぐらい自分でも理解していた。

「万物を滅ぼすもの。それはたった一つの単純な感情――そう、嫌いなのですから」

老龍の長い白ひげが前からの風にやんわりゆれる。その目を細め老いた龍はなお続ける。

「それだけは、完全にとまでは言いませぬが、お持ちにならないでください、王子」

廊下の終わり、庭園への入り口まで歩んできた二人は、ふとそこで晴れた世界を眺めた。

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